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ビール・・・コップ15杯(約2250ml)
焼酎・・・ロック10杯(約1200ml)
純アルコール
2250ml×0.05×0.8=90g
1200ml×0.15×0.8=144g 合計234g

華膳→創

簡単なプロフィール その5

久しぶりに続きを

24で宮崎に戻ってきた。また、すぐに出るつもりで。

しかし、衝動的に、大好きな車を買ってしまう。シトロエンの2CVを。

22歳くらいの頃、一生のうちに所有した車のリストを車好きの仲間と作ったことがあった、そこには、記憶では、ポルシェ、コルベット、ボルボ、ビートル、・・・あと4,5台はあった気がするが、シトロエンは無かった。

ではなぜ?シトロエンだったのかというと、当時は、所有できるリスト内の車は、ビートルくらいだった。金額てきにも。

しかし、新車というものを一度体験したくて、当時は最後の新車の2CVがたまたま残っていて、ドイツ時代に、隣の家に2CVがあって、ヨーロッパには、まだ2CVがあふれていた。

大好きな空冷だったし、水平対向だったし、エンジン周りをみても、自分で何とかなりそうなシンプルさだった。

そして、買って乗って、大好きになった。シトロエンから離れられないくらいに。

だから、一時は、次もシトロエンと考えた時期もあったくらいに。今は、同じ水平対向の国産車、これも、国産車では、唯一大好きな、スバルのレガシーに乗っている。水平対向は最高やな~

いつかは、ポルシェの夢は、いつも心にあります。それは、きっとかなうと確信しています。その先の夢のためにも、ポルシェはさけては通れないところだと強く想うし、先につながっていくということを。

車を所有したことで、ローンが発生し、いよいよ宮崎からでれなくなりました。仲間も消防団や商工会を通じて増えてゆき、25歳のころに、今へ続く大きな始まりがありました。

それは、「かしのみ会」です。とてもかわいい会の名前ですが、もともとは、独身者の独身者によるイベントで、街を活性化しようと、町内のIカメラ屋さんの提案で始まったと聞いています。今考えると、Iさんに感謝感謝です。この会との出会いが無ければ、今の状況はあり得ないでしょうから。ここで、法華嶽公園を利用しての野外イベントがスタートします。

そして、運命の1995年初めての野外ライブイベント「ライブIN法華嶽」を開催することになるのです。

ここでの出会いが、音楽を使って街や人を活性化しようとするグループ「スマイル」へつながり、「ホッケストック」へとつながっていきました。平田達彦さんとの出会い、音楽好きな仲間との出会い、そこから、何組が出会い、結婚しただろうか。結局、Iさんの思惑通り、(もうIさんは、気づいていない、忘れているかもしれませんが、そんなことを提案したことを)進んできてることに、いかに、最初の想いは形をかえ、時間を経ると、現実化するかということに驚きます。

「ホッケストック」のことは、それだけでも、一冊の本ができるくらいに、いろいろな素敵な出会いや体験をさせてもらっています。現在進行形のイベントで、毎年、進化しています。

簡単なプロフィール その4

西ドイツでは、ほんと貴重な体験を沢山させていただいた。
ほんとまた、行ってお礼を言いたい。
「ダンケシェーン へル クラップ」
3~5年いるつもりだったが、いろいろなことが重なり、たまたま宮崎まで帰ってきた。そして、宮崎から出られなくなった。(詳しくはまたの機会に)

宮崎に帰るにあたっては、大きく2つの心配があった。
まずは、大好きな音楽を聴く機会が減るんじゃないかという危惧。
もうひとつは、切実で、大好きな日本酒が飲めなくなるのではないかという心配。宮崎は鹿児島につぐ焼酎文化圏で、酒と言ったら、それは焼酎を意味していた。東京でお酒をおぼえるまでは、おとそのイメージしかなかった。スナックの棚も、ほとんどは芋焼酎で、日本酒頼むと、下の棚を探して、半分くらいのいつ開けたかもわからないような「松竹梅」を平気で出すお店も実際にあって、ガックリきたこともあった。

しかし、今は断言できる。求めれば手に入るのだと。
音楽も、日本酒も、東京にいた時と同じかそれ以上の深さで堪能させてもらっている。有り難いご縁がたくさんあったお陰だが、感謝の日々である。

簡単なプロフィール その3

大学をなんとか卒業し、その前に、就職活動をした。人並みに。
まだ、バブルはじける前のいい時代で、一人でいくつも内定をもらっている仲間が多い中、どうしても海外で働きたかった。
国内なら、3つの会社だったいいと、電話したが、どこも、青田刈りですでに今年は決定済みとのことで、国内の選択肢は無くなった。
なぜか忘れたけど、その3つとは、「三和酒造」「パタゴニア」「名前忘れたが外資系の証券会社あっソロモンブラザースだ」
気持ち新たに、すぐに外国(ほんと何処でもよかった)に行かせてくれそうな会社を手当たり次第に受けるが、英語も堪能でもなく、第2外国語もなんだったか忘れるくらいの男にすぐに、海外に行かせるような会社はなかなか見つからなかった。
そんななか、いろいろな方面に網をかけていた一つ。
親父系の網に、ひっかかったと連絡が入った。
もう海外で働けるのであれば、何でもよかった。何処でもよかった。
北極でも南極でも。いや本気で。
そして、そこが、当時西ドイツで、ワイン農家と知り、ああそうか。
それは、よかった。くらいにしか思わなかった。
とにかく、海外ならなんでも、どこでもよかったのだから。

簡単なプロフィール その2

酒とバイトとバイクと音楽の日々を送りつつも、3、4年は比較的大学の授業も面白いものが増えてきた。特に、実際に発酵食品を造る授業や、企業に行く研修は、面白かった。
中でも、日本酒には、ひかれた。
造り方もさることながら、やっぱり、味に。
二十歳で、日本酒に完全にノックアウトされて、21年、毎日ノックアウトされっぱなしである。
なぜか、なぜなのかわからないが、しっかりと覚えている、ワンシーン。
こんな感じだった。
何人かの先輩と(当時は先輩とばかり遊んでいた)、夜中も明け方に近い時間帯、いつものように日本酒をしこたま呑んで、世田谷の細い路地を、Gメンよろしく、大声で話しながら、笑いながら、歩いていた。その時、頭にひらめいた、というより、降って来た言葉「し・こ・た・ま」
「しこたま」‥‥なんだろう‥‥日本酒の名前かな‥‥いい名前だなあ‥‥よし将来造ろうか、と。
だから、日本酒造りを夢見だしたのも、この「しこたま」の名前が天から?降ってきたお陰。有り難い。
しかし、この時点では、もちろん何の具体的な案も、動きもなし。
漠然としたものだった。でも、確実に、将来は造るぞ!という意識はあった。不思議と。

簡単なプロフィール その1

まず、生まれは、宮崎県宮崎市の病院らしい。
生年月日は、戸籍では元旦生まれだが、本当は、大晦日だと、二十歳の時に知る。それまで、宮日新聞の生まれ月占いは当たるとよく見ていたのが、ばからしくなって、それ以来、占いは見ない聞かないようになる。
家業が、発酵関係たっだので、発酵臭(香)の中で、育つ。
発酵にここまで関わるとは、当時(子供の頃)は思っていなかったが、気がつけば、発酵一色の人生を歩んでいる。今は、それで良かったと思っている。
まずは、大学に、発酵関係の大学を選ぶ。
これも、本当たまたまで、ひたすら、都会に行きたかった。
大阪か、東京に、ひたすら行きたかった。
東 京の某公立大を希望していたが、絶望的に無理だと言われ、どうしたものかと思っていたところ、救いの神‥‥発酵関係の子弟を優先的に入れる大学が東京にあ るという情報。これしかないと、狙いを決めて、高校に推薦を申し込む、ほんとに運よく(詳しくはまた)、学校推薦がもらえ、推薦入学する。この事が、よ かったのか、また後で書きますが、よかったんだな。やっぱり。今考えると。
大学在学中は、ひたすら、やっぱり、お酒の日々でした。
あとは、バイトと、旅(バイク、車)と、音楽‥‥
今の原型は、この時代に出来ていたのだと、改めて思うなあ。
大好きだったお店は、世田谷の経堂駅のすぐそばにあった「あさひや」さん
ほんといい店だったなあ。
週の半分は行っていたかな。
安い、うまい、楽しい
現在の好きなお店ランキングでも、確実に3本の指に入ります。
もう一度、あさひやで、昔の仲間と酒が呑みたいなあ
叶わぬ夢だけど。もう10年近く前に閉店しました。
おいちゃんが亡くなられたと風の噂で聞きました。
「お疲れさまでした。あなたの店で、お酒の素敵さを知りました」
「ありがとうございました。心から感謝します。」